人見絹枝 — 胡適が「真の東方之新婦人」と感嘆した女性   
Hitomi Kinue, Hu Shih admired her "the true new woman of the east"

 2012年7月28日の毎日新聞夕刊は、第30回オリンピック・ロンドン大会の開会式を報じていた。
そして、204の全出場国・地域から女性選手が参加した画期的な大会であることを報じていた。
 次の文は、甲南女子中学・高等学校『研究紀要』第31号(2010)に投稿・掲載したものである。
今回、訂正などは、誤字など最小限にとどめた。
 しかし、あらためて、人見絹枝が活躍した昭和初期という時代の多様性を思うことになった。
 そのころ、織田幹雄が南部忠平を誘って、千里山の関西大学グランドでトレーニングをしていた
時期でもある。大島謙吉も、矢柴春雄もいた。みんな、当時の日本を代表するアスリートであり、
世界の最前線のアスリートでもあった。
 戦後、南部は、パーティでもソ連の選手などに質問攻めにあうとどこかに書いていた。そんな貪
欲な海外の選手たちの意気込みを書いていたのだが、南部は、世界のアスリートの憧れの人であっ
たのである。
 関西大学の体育科のスタッフが、かつて、このグランドにいる選手たちはみんな胸に日の丸をつ
けていたと語っていたという。それは、関西大学の学生のなかにも一流の多くの選手がいたという
ことであるが、グランドにいる選手は、関西大学でなくてもよかったのである。さらには、日本人でな
くてもよかったのである。
 この度、関西大学年史編纂室の写真の使用許可を頂いた。下の人見絹枝についての文に使用
させていただいた。人見絹枝の時代の雰囲気が分かると思うからである。人見絹枝が勤務の合
間に、ともにトレーニングをしていたと文にもある関西大学の矢柴春雄(本文5頁)の写真(左)であ
る。スタンドの上に、以前は図書館として使用され、現在博物館になっている、かつて関西大学を
象徴していた建物が見える。

 人見絹枝は、ヨーロッパとアメリカの女性アスリートを、世界の東の果ての日本へ集めて競技を
させようとしていた女性である。そのとき人見絹枝は、まだ21歳であった。女性アスリートの世界を
リードしていたフランスのミリヤ女史は、東洋とそして世界の女性による競技の世界の発展を人見
絹枝に託していたようである。
 人見絹枝は、それを果たせず、1931年に亡くなった。24歳だった。その年は、日本がアジアで15
年に渉る戦争を仕掛けた年であった。
 (補)『堀川同窓会会報』第7号(2014年発行)に、
十三公園(旧ミードの森)2012/12/25 人見絹枝旧居の近く
市立第一高女に人見が赴任していたときの生徒である松崎操さんの記事がある。
 そこに、人見絹枝が4ヶ月で教職を退いたのは、体育教師が競技のプロだと解釈され、競技会への
参加が制限されたから母校にもどったと書かれている。私は、そのことを知らずに「京都市立第一高
女を4ヶ月で退いたのは、人見はあきらかにしないが、二階堂トクヨの念願であった二階堂塾の専門
学校昇格が絡んでいたようである」と推測した。人見絹枝が有能な人だったことは事実であるが、競
技者の資格規定解釈の問題があったとは知らなかった。(2014/03/09)


人見絹枝 — 胡適が「真の東方之新婦人」と感嘆した女性
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