1990年代の台湾・台中

   台中駅(臺中火車站)の高い天井と装飾が施された柱が並ぶ内部
(1)
 上記のタイトルは、私が中京大学社会科学研究所の台湾史研究の事業に参加したのが1992年
の夏で、その事業の中心になる總督府文書目録作成のための宿舎が台中にあったからである。
 中京大学社会科学研究所(当時の所長は石堂功卓法学部教授)が檜山幸夫教授主導のもとに
臺湾總督府文書の研究という事業を進めていた。
 私が、法制史学会會員の上野利三松阪大教授(当時)と上野史朗名古屋ビジネス専門学校講師
(当時・2人は兄弟ではない)の紹介で参加したのは、その8月の中旬にさしかかろうかという時であ
った。私の参加が、その時期になったのは、当時勤務していた学校でない職場で、お盆休みを挿ん
だ方が、職場にとって好都合であるといわれたためである。

(2)
 当時、私にとって臺湾といえば、1988年に日本で劇場公開されて話題になった侯孝賢監督作品
映画『童年往事  -時の流れ』(第36回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞)であった。
 臺湾では、1987年に、それまで38年間施行されていた戒厳令が解除されていた。
 その戒厳令が布かれることになる2・28事件当時を描いた侯孝賢『悲情城市』は1989年ヴェネツィ
ア国際映画祭グランプリを受賞していた。
 侯が自分の作風を自覚したという『風櫃來的人』(脚本・朱天文)は、日本では1985年のぴあフィル
ムフェスティバルで『風櫃から来た人』の邦題で上映され、1988年に、『風櫃の少年』の邦題で劇場
公開された。
 その映画は、澎湖島の風櫃から先輩のいる高雄に来た少年の話である。先輩は、金になる漁船
に乗って不在で、恋人の女性だけがいた。先輩に代わってその女性を庇護しているつもりが、心を
寄せるようになっていた。しかし、その女性も帰って来ない先輩と別の道を歩むことになり、その女性
は、女性の姉が住むという台北へ旅立っていった。高雄の環状になったバス・ターミナルから出発し
た台北行きのバスを少年が見送る場面はとても切ない。映画史上の残りうる場面の一つと言ってよ
いと思う。勿論、映画はそれで終わりではなく、台湾の少年たちに重くのしかかっている現実(例えば
「徴兵」)との格闘があった(田村志津枝『スクリーンの向こうに見える台湾』田畑書店、参照)。
 話が随分とずれたが、兎に角、台湾の人なら、どこにでもある風景なのだが、私があの映画で見
た環状のバス・ターミナルを現実に見たのがこの台中駅前だったのである。
 
(3)
 タイトルは、「90年代」としたが、上に掲載している台中駅(臺中火車站)の写真などは、2008年の
ものになる。松崎萬長設計の駅舎は、1917年に落成したとのことである。
 台中の町の変貌は凄まじく、90年代でも、大きく変化しているが、2000年代の変化はそれどころ
ではない。

 中京大学社研の臺湾總督府文書調査チームは、臺中市内(駅から徒歩10分)の宿舎を出て駅前
から、バス(当時、日本の国鉄バスそっくりの「臺汽」バスだった)で南投県中興新村にある台湾省
文献委員会(当時)まで通った。1時間ほどかかり、9時前には到着し、出勤した職員の人たちと同
時に入館した。
 私は、みんなで摂る朝食の前に、出来るだけ、臺中の町を駆けて回った。以下の写真が、なんと
なく明るくないのは、朝早いからである。今、あらためて思うのは、当初はカメラを持ってはおらず、
写真を撮りだしたのは、少し後になってからということである。以下に掲載するものの多くは、98年
のものである。
 最初、駅の写真から入ったので、中山路から駅を臨んだ写真を掲載しようと思ったが、侯孝賢『童
年往時』の少年が、旧日本人の官舎に住んでいたことから、今も臺湾のあちこちに残る日本式家屋
に目が行った。

 これは、バスから撮ったものだと思う。92年のときから目についていたものである。当然に1945年
以前に建てられたものである。その時は付いていなかった筈のエアコンが付けられている。 


 中山路から台中駅駅舎を見たものである。右に補習班(学習塾あるいは予備校)の看板が並んで
いる。日本の私の住居の近くでも(阪急西宮北口駅の北側)、同様の光景がある。

 下は、台中公園から自由路二段を西(南)に行き、中正路を横切ったあたりの路地、この映像は
2013年の光景である(2013/07/25)が、1990年代のはじめのころまでは、台中駅(臺中火車站)にも
近く、台中公園の近くでもあり、繁盛した通りから入ったところだった。


 自由路二段に面した通り、シャッターが降りているのは、かつては、かなり繁盛した文房具屋さんで
はないかと思う。上の路地の奥に「賓館」の看板が見える(2013/07/25)。

(4)


 正面の上部に、正義justiceを象徴する天秤が掲げられているように、現在の台中地方法院(裁判
所)である。ところが、1階の入口には「臺湾臺中地方法院検察署」となっている。裁判所と検察署の
建物が一緒である。
 中へ入って、法廷をみると、席が指定されており、向かって右が検察官、左に弁護人が座るように
なっている。ちょうど、日本の場合とは、両者の席が右と左で逆になる。文献委員会の年配の方に、
その感想を言った。日本でも戦前はそうだったのでしょう、という返事が返ってきた。私が刑事訴訟
法を教わった弁護士の毛利與一先生が、戦前は、検察官は、裁判官と同じ壇に上がっていたと仰っ
ていたことを思い出した。臺湾では、それが、そのまま、前へ降りて来ただけなのかと思った。
 2000年7月台湾大学王泰升教授らの調査で、臺中地方法院における民事判決原本の簿冊419冊
などの所在があきらかにされた。
 裁判所の前には、掲示板が並んでいた。日本にも公示催告などの掲示板があるが、それとは規
模が違う。規模は違うが姿は似ている。
 似ているが全く違うのは、刑事裁判の判決主文が、大きな字でプリント・アウトされたものが、角朱
印を押されて掲示されていることである。そして、日本の公示催告のようなものより、字もかなり大き
い。

 日本でも、明治の初年に「五榜の掲示」で、「五ヵ条のご誓文」と抵触する内容の新政府方針が
掲示されて話題になったが、その中国伝統の「榜」だろう。つまり、中国伝統の榜が、ITで行われて
いるのである。その罪名が「妨害婚姻」で、「…連續與有配偶人相姦、處有期徒刑肆月…」とあっ
た。
 下は、地方法院の近くの律師(弁護士)事務所街である。これは、大阪高裁の近辺、若松町や老
松町などが、弁護士事務所が入っているビルが並んでいた光景を思い出す。尤も1960年代の中頃
まで、大阪には木造のビルもまだ結構あった。




«大阪   2013.5»  

     私が大阪の坂東宏法律事務所に18歳で勤め始めたとき(1966)、事務所は、裁判所の近くの
   旧町名でいうと樋ノ上町の藤ビルにあった。藤ビルは、一部3階になっている木造だった。依頼
   人などの訪問者に、事務所の場所を説明するのに、ライオンの像の難波橋から、赤いお椀の広
   告塔のある味の素ビルの北側の通りを入ったところにあると言っていたように思う(以下の写真
   は、大阪難波橋、それから旧地名が樋ノ上町、老松町などだったところである)。
(阿形)
(吽形)  このライオンの像から、北方
   向に向かい、その一筋目を西へ入ったところが下の通りになる。右側の秋田ビルには見覚え 
   があった。吉本ビルにも見覚えがある。
    現在の大阪法務局北出張所の北側のある松本ビルは、かつて大阪の代表的な司法書士事
    
   務所があったところではないかと思う(2013/04/24)。
   
    坂東先生は、木造ビルであることから、火災を気にされていた。新築のビルに転居先をさが 
   すようになっていた。そのころ、弁護士が多く入居していた有名なビルに大江ビル(ビルの正面
   には「大江ビルヂング」とあったようにも思う)というのがあった。関大2部の同級生も、よくこの
   ビルにある事務所に勤めているのがいた。
    元京大法学部教授、当時立命館大学法学部教授であった佐伯千仞先生の事務所も大江ビ
   ルにあった。米田先生との共同事務所ではなかったかと思う。佐伯先生は、研究と實務の両方
   ができる刑事法の学者だとは中山研一先生からお聞きしていた。尤も佐伯先生の場合、弁護
   士の弁護士みたいな仕事も多かった筈だと教えて下さった先生があった。
    坂東宏先生は、「親父が開業していたところで、親父のときからのものが多くて・・・」と随分と
   藤ビルを去るのを躊躇われていた。親父というのは、坂東米八弁護士のことで、当時、勤務弁
   護士だった藤田一良先生が、「いまでも米八さん」と懐かしむ人がいまでもいますね、と仰って
   いたことがあるほど著名な弁護士で、徳島県には、「坂東道路」という坂東米八弁護士の篤志
   がもとになった道路もあると聞いた。
    老松町は、先述のように弁護士事務所が多いところで、私の郷里、丹波の東芦田(丹波東芦
   田ホームページ http://higashiashida.com/)というところのご出身で、大阪高裁の長官を経て開
   業されていた荻野益三郎先生の弁護士事務所もあった。ご挨拶にうかがって坂東宏先生のと
   ころでお世話になっていると言うと、坂東さんのお父さんの米八先生は、私たちの先輩になる判
   事さんだったと言われた。
  昭栄ビル南館が見える。かつて、そこに、南館 
   先生や斎藤先生の法律事務所があった(というより、一時、南館先生の事務所が斎藤先生と 
   の共同事務所になって、その後、斎藤先生は、大阪地裁の判事になられていた。赤煉瓦時代
   の2階の地裁書記官室(第何部であったかとっくに忘れたが、ひょっとして手形訴訟などを扱っ 
   ていたところではなかったかと思う)で、湿式だったが、当時、それなりにポータブルになってい
   たコピー機をもちこんで、もたもたしていたとき、偶々お会いした斎藤先生にそのどんくささを笑
   われたことがある。事務員が、記録を手書きなどで謄写していた時代の話である。2013.5.9)。